川崎重工の歴史


1950年

製鉄部門を分離して、川崎製鉄(株)を設立。

1952年

ヘリコプタの製造を開始(ベル47D型)

川崎ベル式47型ヘリコプタ

軍用機生産が中心であった戦前のわが国航空機産業は、1945(昭和20)年の終戦とともに壊滅しました。

以来、1952(昭和27)年に対日講和条約が発効するまでの7年間、航空機の生産は禁止されました。
航空機の生産が再開された後も、7年間のブランクは大きく、事業の再建は困難を極めましたが、当社では、岐阜工場で、4人乗り連絡機の設計に入り、1953(昭和28)年、KAL-1連絡機を完成させました。
一方、明石工場ではヘリコプタに着目、1952(昭和27)年にアメリカのベル・ヘリコプタ社と技術提携し、1954(昭和29)年に国産第一号の川崎ベル式47D-1型ヘリコプタを完成させ、順次6機を陸上自衛隊へ納入しました。

1969年

川崎重工業、川崎車輛、川崎航空機工業の合併

三社合併の調印を終えて。
左から四本、砂野、上田の各社長

わが国が高度経済成長時代を迎えつつあった1960(昭和35)年頃から、国際競争力の増強を目的とする大企業の集中・合同が行われ、各業界の再編成が進みました。
こうした企業巨大化の流れの中で、当社にも、川崎グループ大同団結の構想が浮かび上がりました。
当時の砂野社長は、初代社長松方幸次郎が理想とした「陸海空にわたる総合重工業」を再建したい、という念願を持っていました。
重工業の砂野、車輛の上田、航空機工業の四本の3社長が、同じ構想のもとに話し合い、合併に伴う業務について検討を進めた結果、1968(昭和43)年、合併覚書に調印、翌69(昭和44)年4月1日、川崎重工業が川崎車輛と川崎航空機工業を吸収合併するという形で、3社の合併が実現しました。
この時点における当社の企業規模は、資本金280億円、初年度売上高2,000億円(予定)、従業員約2万6,000人で、社長は砂野仁、副社長には上田将雄、四本潔が就任しました。

1969年

国産初の産業用ロボット「川崎ユニメート2000」誕生

国産初の産業用ロボット「川崎ユニメート2000」

省力機械や省力システムの開発と生産を目指してきた当社はわが国の産業用ロボットのパイオニアとして国産化に取組みました。当初、川崎航空機工業が産業用ロボットを専門に開発しているアメリカのベンチャー企業・ユニメーション社と1968(昭和43)年に技術導入契約を結んで国産化に着手。翌1969(昭和44)年、わが国初の国産産業用ロボット「川崎ユニメート2000型」の第1号機を誕生させました。

1969年

モーターサイクル「H1」を発売

カワサキ「H1」

1969(昭和44)年、国産最大の排気量車として大型モーターサイクルブームに先鞭をつけたWシリーズに続いて、画期的な新型H1(2ストローク3気筒498cm3)がデビュー、世間の注目を集めました。
元来、大排気量車は欧州メーカーが主流で、北米市場でも圧倒的優勢を示していましたが、この頃から日本製大排気量車のめざましい台頭が予想されるようになりました。カワサキH1はこのような大排気量車の分野で当社の地歩を固め、北米市場でも優位性を高めました。無類のハイパワーから引き出される高性能を備え、右に2本、左に1本の非対称マフラーから3気筒特有の唸るようなエキゾーストノート(排気音)を響かせて疾走する、ホワイトとブルーのツートーンに塗り分けられた姿は、大排気量車の中でもひときわ異彩を放つ存在でした。

1972年

モーターサイクル「Z1」を発売

カワサキ900スーパー4「Z1」

1972(昭和47)年、当社は当時国産では最大排気量のモーターサイクル カワサキ900スーパー4、通称Z1を発売しました。エンジンには空冷4ストローク4気筒903cm3 DOHC機構を採用。当社初の4気筒エンジンであるとともに、世界でも類を見ない高度のメカニズムでした。開発段階から別名ニューヨークステーキと呼ばれたZ1はまさに「よだれの出そうなモーターサイクル」ということで、アメリカで発売直後から圧倒的な人気を得、ロングセラーとなりました。
Z1はカワサキの重量車の地位を決定づけただけでなく、スーパースポーツ車の先駆をなす世界の名車として今日まで語り継がれています。

1972年

汽車製造(株)を合併、川重冷熱サービス(株)を設立。

汽車製造株式会社を合併、鉄道車両分野でわが国トップメーカーの座を確保しました。また、同年に川重冷熱サービス株式会社を設立。その他、都市ごみ焼却プラントの分野にも事業を広げました。

1973年

ジェットスキーの販売を開始

パーソナル ウォータークラフト
「ジェットスキーWSAA」

モーターサイクルの他にガソリンエンジンを動力源とした完成商品を製造・販売することはできないか――こうした角度から検討がなされ、1971(昭和46)年、マリンレジャーの分野に進出すべしとの経営方針のもと、社内にマリンプロジェクトチームが結成されました。
新商品のコンセプトを模索する中、当時マリンスポーツとして盛んであった水上スキーの楽しさを一人で味わうという発想を基に、今までにないまったく新しいカテゴリーのマリン商品を創り出すことに焦点が絞り込まれ、開発が進められました。川崎重工の登録商標であるパーソナルウォータークラフト「JET SKI®」はここから生まれました。1973(昭和48)年、スノーモービル用エンジンをベースにした2ストローク2気筒398cm3エンジン搭載の機種「WSAA」が明石工場で完成。この新製品は「Jet SkiR」と名付けられ、アメリカで実施したモニター販売で確かな手ごたえを得た後、量産に移されました。また1975(昭和50)年からは米国ネブラスカ州リンカーン工場に生産を移管し、「JS400」の量産を開始しました。
1980(昭和55)年には日本でも販売を開始しています。

1975年

米国でモーターサイクルの生産を開始

KMM リンカーン工場

当社がモーターサイクル事業に本格的に参入したのは、川崎航空機工業時代の1960(昭和35)年ですが、60年代後半になるとアメリカ市場への進出も急速に進みました。1966(昭和41)年シカゴに、翌年にはニュージャージーに販売子会社を設立、1968(昭和43)年にはこの両社を合併してKawasaki Motors Corp. U.S.A.(KMC)を設立し、積極的に販売活動を展開しました。併せて、1969(昭和44)年にはH1、1972(昭和47)年にはZ1を発売、この2つの大型ヒットモデルにより、アメリカ市場でのカワサキの知名度は確固たるものとなりました。当時、アメリカを始め世界各地に大きな二輪車需要が見込まれました。そこで、当社はアメリカに生産拠点を設けることとし、1974(昭和49)年、ネブラスカ州にわが国の二輪車・自動車メーカーとしては最初の現地工場であるリンカーン工場を開設しました。
1975年1月からはKZシリーズの生産を開始、更に同年からはパーソナルウォータークラフト「JET SKI®」(PWC)の生産も開始しました。当初、KMCリンカーン工場と呼ばれたこの工場を1981年に分離独立し、Kawasaki Motors Manufacturing Corp.U.S.A.(KMM)を設立しました。今日では、KMMはリンカーン工場に加えてメアリービル工場(ミズーリー州)も有し、モーターサイクル、ATV、PWC、汎用ガソリンエンジン、産業用ロボット、鉄道車両等を製造する一大生産拠点に発展しています。

1976年

ガスタービン発電設備PU200を開発

国産初のガスタービン発電設備「カワサキPU200」

航空機用ジェットエンジンの技術の蓄積と長い経験・高い信頼性を基に、当社は独自の技術で、日本の産業用ガスタービン分野を切り開きました。1972(昭和47)年、当社独自の設計による産業用ガスタービンの開発に着手し、1976(昭和51)年には、わが国で初めて国産ガスタービン発電設備「カワサキPU200」を完成させ、消防法による型式認定を取得しました。PU200は、翌77(昭和52)年の電気設備工業展において、その斬新さによってコンクール最高の賞である建設大臣賞を受賞しました。これを契機に、当社はガスタービン設備のパイオニアとして市場を開拓・拡大し、1983(昭和58)年には純国産ガスタービンを用いた独自のコージェネレーションシステムPUCシリーズも開発しました。

1979年

BK117型ヘリコプタ初飛行

川崎BK117ヘリコプタ

1977(昭和52)年、当社は西ドイツのMBB社(現・Airbus Helicopters)と多用途双発ヘリコプタ川崎BK117型の開発に着手し、1982(昭和57)年から生産に入りました。これは、わが国初の国際共同開発によるヘリコプタです。川崎BK117型ヘリコプタは、双発エンジンによる高い安全性と、無関節型ローターシステムによる安定した操縦性を備え、悪天候で視界が悪い時も計器飛行が可能であるなど優れた特徴を有しています。

1981年

わが国初のLNG運搬船を引渡し

LNG運搬船「GOLAR SPIRIT」

タンカーブームに対応する一方で、当社は一層付加価値の高い造船分野についても研究開発を進めました。LNG(液化天然ガス)運搬船の建造は当社が目指した新分野の一つです。当社は1971(昭和46)年にノルウェーのモス・ローゼンベルグ・ベルフト社(当時)と技術提携し、LNG運搬船の開発に注力しました。当社で建造したわが国初のLNG運搬船「GOLAR SPIRIT」、(9万3,000総トン/12万9,000立方メートル型)は坂出工場で船体を建造し、球形タンクの製作は播磨工場で行い、船体完成後に搭載しました。1981(昭和56)年、客先に引渡しました。

1986年

アメリカで鉄道車両生産開始

1988年

アメリカで建設機械生産開始

1989年

明石海峡大橋主塔工事を受注

明石海峡大橋

橋長3910メートル、中央径間(主塔と主塔の間)1990メートル-幅約4キロの明石海峡をひと跨ぎにする明石海峡大橋は、1998(平成10)年4月に開通した世界最長の吊橋です。当社は、淡路側の主塔(高さ約283メートル、1基の質量約2万5000トン)建設に5社の共同企業体の主契約会社として参加し、高度な鉄構技術を駆使して完成させました。また補剛桁(橋桁)も製作・施行しました。