川崎重工の歴史


1911年

国産化第1号蒸気機関車完成

国産化第1号蒸気機関車

わが国で初めての蒸気機関車の運転は、1872(明治5)年、品川-横浜間に鉄道が開通した時です。この"走る陸蒸気"はイギリスから輸入したものでした。当社が車両製作を始めたのは1907(明治40)年で、その4年後に国産化第一号の蒸気機関車を世に送り出しました。鉄道院向けの2B形飽和蒸気式テンダー機関車6700形式第6704号です。その性能は極めて優秀で、後年、鉄道院から寄せられた一文に「その成績良好にして外国製に比し遜色なきのみならず」という一節が見られます。当社は1971(昭和46)年までに合計3,237両の蒸気機関車を製作して、日本の鉄道の普及、充実に貢献しました。

1918年

兵庫工場に飛行機科を設置

当時ロンドンに滞在していた松方は世界大戦での航空機の活躍ぶりに着目し、1918年に兵庫工場に飛行機科を設置しました。ライト兄弟の初飛行からわずか15年後のこと。まだ木と布でつくられた飛行機が短い飛行距離を競っていたこの時代に航空機の製造に着手。
その後、新たに航空機工場を開設、日本初の全金属製飛行機を完成させて、今日の礎を築きました。

1919年

船舶部を分離して、川崎汽船(株)を設立

1922年

当社初の航空機(乙式一型偵察機)完成

当社初の航空機(乙式一型偵察機)

1922(大正11)年、兵庫工場の飛行機組立工場で初めての飛行機が完成し、岐阜県蘇原村(現・各務原市)での試験飛行の結果、陸軍から極めて優秀と認められました。これが、陸軍最初の制式機となった乙式1型偵察機で、1927(昭和2)年までに約300機を製造しました。

1926年

東京市の永代橋を製作

隅田川に架かる「永代橋」

1923(大正12)年の関東大震災で隅田川に架かる多くの橋が倒壊し、新しい橋に架け変えられました。清洲橋や白鬚橋、永代橋など、後に東京の名橋と評価された橋を製作したのが川崎造船所で、この3橋はいずれも精度の高さで賞賛されました。そのうえ、華麗で女性的な景観の吊橋・清洲橋の上弦ケーブル材と、重量感にあふれた鋼アーチ橋・永代橋の下弦つなぎ材に、日本で初めて高張鋼(=デュコール鋼、川崎造船所兵庫工場製)を使用するなど、時代の先端を行く技術を盛り込みました。川崎造船所が当時、国の復興局などから受注した橋は隅田川を含めて25橋、使用鋼材の総量は1万6,000トンにのぼりました。勝鬨橋も川崎重工が製作した隅田川にかかる橋です。シカゴの跳ね橋をまねた二葉式跳開橋。橋の中央部44メートルが大型船の通船が可能なように70度までハの字に開くようになっています。しかし、1980(昭和55)年、交通渋滞緩和のために開閉に関する規制が廃止され、今は開かずの橋となっています。

1928年

兵庫工場を分離して、川崎車輛を設立

1933年

「六甲号」自動車の製作販売を開始

バス「六甲号」-1934年鉄道省に納入

1918(大正7)年、当社は時代の要請に応じて、兵庫工場でトラックの生産を開始。
その後、生産は一時中断されましたが、兵庫工場を分離して川崎車輌が設立された翌年の1929(昭和4)年に生産を再開しました。
1931(昭和6)年にはアメリカの高級トラックをモデルにした1.5トントラックの試作車を完成、翌年から「六甲号」の名称で、トラック・バスの生産を開始しました。1933(昭和8)年からは「六甲号」乗用車の製造も始め、高級乗用車として宮家などに納入しました。
1942(昭和17)年、陸軍省の指令により、航空機の増産体制を強化するため、当社の自動車生産は中止されましたが、この間、数多く自動車を製造し、わが国自動車産業のパイオニア的役割を果たしました。

1934年

中国へ「あじあ号」用パシナ形蒸気機関車を納入

中国「あじあ号」用パシナ形蒸気機関車―1934年(当社製蒸気機関車の1500両目を記念して、"1500"と書いてあります。)

当社(川崎車輌)は中国向けに数多くの機関車・客車・貨車を輸出しました。中でも1934(昭和9)年に納入したパシナ形蒸気機関車は当時世界の最新鋭機関車で、大連-新京(現・長春)間の超特急「あじあ号」を牽引しました。

1937年

飛行機部門を分離して、川崎航空機工業(株)を設立

1939年

川崎重工業株式会社として社名変更

事業の拡大とともに、車両、航空機、製鉄部門が相次いで独立し、それぞれの分野で確固たる地歩を築きました。第2次世界大戦と戦後の復興、そして近代国家をめざした高度成長の時代-船舶、車両、航空機、産業機械、土木建設機械、鉄構などの各事業は、いずれも高度成長を支えながら大きく発展しました。

1941年

「飛燕」戦闘機の生産を開始

三式戦闘機「飛燕」

第2次世界大戦中、当社(川崎航空機工業)が製作した三式戦闘機「飛燕」は、太平洋戦争下の日本の軍用機中、唯一の水冷式戦闘機として開発されたものです。最大速度610km/時、高度1万メートルでも編隊飛行が可能であるなど当時の世界水準をいく高性能機として知られました。