川崎重工の歴史


1878年

川崎正蔵が川崎築地造船所(東京)を開設(創業)。

創業者 川崎正蔵

当社の創立は1896(明治29)年10月のことですが、造船業の歴史としては、それより18年前から始まっています。創業者の川崎正蔵が1878(明治11)年に東京・築地に川崎築地造船所を開設したのが、当社の起源です。
川崎正蔵は1837(天保8)年、鹿児島の呉服商人の子として生まれました。17歳(嘉永6年)で当時唯一の西洋文明への窓口であった長崎に出て貿易商の修行を積み、27歳(文久3年)のとき大阪に移って海運業を始めましたが、このときは、持船が暴風雨で遭難して積荷とともに海没したため失敗しました。
その後1869(明治2)年に、薩摩藩士が設立した琉球糖を扱う会社に就職、1873(明治6)年には、大蔵省から委嘱されて琉球糖や琉球航路の調査を行いました。翌年には日本国郵便蒸汽船会社の副頭取に就任し、琉球航路を開設、砂糖の内地輸送を成功させました。
この間に自分の運命を左右するような海難事故に何度も遭遇した正蔵は、自らの苦い体験を通して江戸時代の大和型船に比べて船内スペースが広く、速度も速く、安定性のある西洋型船への信頼を深めると同時に、近代的造船業に強い関心を抱くようになりました。
1878(明治11)年、時の大蔵大輔(現在の次官)であり同郷の先輩でもあった松方正義などの援助があって、東京・築地南飯田町(現在の中央区築地7丁目)の隅田川沿いの官有地を借りて川崎築地造船所を開設、造船業への第一歩を踏み出しました。

1896年

株式会社川崎造船所(神戸)を創立。松方幸次郎が初代社長に就任。

初代社長 松方幸次郎

川崎造船所が発足して7年後の1894(明治27)年に日清戦争が勃発すると、長らく低迷していたわが国造船業は、にわかに活気づきました。川崎造船所も船舶の修理を中心に注文が殺到し、繁忙を極めました。
こうした中、創業者 川崎正蔵は個人経営の限界を感じ、日清戦争が終わった直後、会社の将来の発展のために株式会社への改組を決意しました。
齢60に近く、事実上、後継者がいなかった正蔵は、同郷の先輩であり自分の事業の恩人でもあった松方正義の三男・松方幸次郎を後継者に選びました。
幸次郎は、1865(慶応元)年、薩摩国(現・鹿児島県)に生まれました。1891(明治24)年、父・正義が第一次松方内閣を組閣したのに伴い首相秘書官に任官、1892(明治25)年に正義が首相を辞任した後、1896(明治29)年、株式会社川崎造船所初代社長に就任しました。以来1928(昭和3)年までの32年間にわたってその座にあり、鉄道車両、航空機事業、海運業への進出、わが国初の8時間労働制の実施などの諸施策を通じて、当社をわが国有数の重工業会社に育て上げました。また、幸次郎は美術品の収集家としても知られ、私財を投じて収集した「松方コレクション」は国立西洋美術館の基礎となりました。東京国立博物館にも幸次郎が収集した浮世絵のコレクションが収蔵されています。

1897年

伊豫丸(川崎造船所第一番船)進水

貨客船「伊豫丸」
(株式会社川崎造船所第一番船)

株式会社川崎造船所として新しくスタートしたその第一船が貨客船「伊豫丸」(727総トン)で、1897(明治30)年に建造しました。ちなみに川崎正蔵の個人経営時代(1886~1896年)の10年間に、川崎造船所は新造船80隻の実績を上げており、この中には570トン級の「多摩川丸」など鋼船6隻が含まれています。当時は、船の材質が鉄から鋼へと急速に近代化していった時代で、日本最初の鋼船は1890(明治23)年に竣工しています。このことからも、川崎造船所の歴史はそのまま日本の近代造船の歴史と言えます。

1902年

乾ドック(神戸工場 第1ドック)完成

乾ドック(神戸工場 第1ドック)―1998年、文化財保護法による登録文化財に、乾ドックとして国内で初めて登録されました。

当社創業者・川崎正蔵は川崎造船所を発足させたときから大幅な設備増強の必要性を痛感していました。そこで、工場地(現・兵庫県神戸市)先の海面を埋め立てて乾ドックを築造することを計画し、1892(明治13)年に地盤調査に着手、1895(明治28)年にはボーリング試験を行いました。川崎造船所が株式会社に改組されると、乾ドック築造の願いは初代社長・松方幸次郎に受け継がれ、幸次郎は就任直後からこの建設に着手しました。
神戸・湊川尻三角州上に位置する敷地は地盤が極めて軟弱で、工事は難航を極めました。幾度かの失敗を重ねたうえ、水中コンクリート打設という新工法も採用して、着工から6年後の1902(明治35)年、乾ドックはようやく完成しました。(長さ130m、幅15.7m、深さ5.5m、最大収船能力6,000総トン)工事期間・建設費とも当時の常識の3倍という大工事でした。

1906年

兵庫工場を開設

1906年頃の川崎造船所北側に隣接する官営鉄道神戸工場

初代社長の松方幸次郎は新事業分野への進出に意欲を燃やしました。その中で有望な新事業として鉄道車両製造に着目、1906(明治39)年兵庫工場を開設。機関車、貨客車、さらに橋桁の製作を開始しました。この年、造船所では船の主機関として蒸気タービンの製造も開始しました。

1906年

わが国初の潜水艇を完成

乾ドックで試験中の
ホーランド型潜水艇「第6」「第7」

海軍が潜水艇の採用について検討を始めたのは1901(明治34)年頃のことでしたが、日露戦争の勃発が早期の決断を迫る結果となり、潜水艇隊の創設が決定しました。1904(明治37)年にはアメリカからホーランド型潜水艇5隻(潜水艇「第1」~「第5」)が輸入されました。同時に潜水艇の国産化も進められることとなり、1904(明治37)年、当社に最初の2隻の発注がありました。海軍から提示された設計図はホーランド型潜水艇の設計者J・P・ホーランドが作成したものでしたが、細部については施工社側に任されることになりました。当社は発注者の信頼に応え、わが国の造船技術の優秀性を世界に示すために総力をあげて建造に取り組みました。アメリカから技術者を招き、起工後も研究を重ねるなど多くの困難を克服して完成させ、国産初の潜水艇「第6」「第7」として1906(明治39)年、海軍に引き渡しました。

1908年

民間造船所初の大型軍艦「淀」竣工

大型軍艦「淀」

日露戦争の勝敗の鍵となった日本海戦後、政府は海軍力強化のため全て外国で建造していた大型主力艦の国産化を計画しました。これにより、それまで駆逐艦や水雷艇などの発注にとどめていた民間造船所にも大型艦を発注するようになりました。当社が製造した通報艦「淀」は民間造船所で初めて建造された100排水トン超の軍艦であり海軍当局から高い評価を受けました。これが民間造船業での本格的建艦の始まりです。