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川崎造船所時代1906年(明治39年)~1927年(昭和2年)

1918年(大正7年) 兵庫工場内に自動車科と飛行機科を新設

航空機、自動車への進出

松方幸次郎社長は当時の好景気を背景に、さらなる業容の拡大をめざして、新事業への進出を期していた。
それは、航空機と自動車の国産化であり、いずれも先駆的な取り組みであった。

大正5年(1916年)3月、松方社長は先進国の航空機工業を調査するために欧米に旅立った。
当時、第一次世界大戦中であり、各方面で航空機の実用価値が注目を集めていた。松方社長はその将来性に着目したのである。
同年9月には、アメリカに滞在中の藤田香苗を入社させ、そのままアメリカにおいて自動車製作技術の研究にあたらせた。
新事業への進出は迅速であった。早くも大正7年(1918年)7月、兵庫工場に自動車科と飛行機科が新設された。

翌大正8年4月には、兵庫工場の隣接地の6,200坪(2万460平方メートル)の用地に自動車・飛行機工場を竣工、職員8名と工員30名で操業を開始した。

自動車生産の中断

陸軍制式4t自動貨車 大正8年(1918年)

自動車科新設に先立つ大正7年(1918年)4月、陸軍からの軍用自動車国産化の要請に応じて、本社造機設計部に自動車掛を設け、陸軍制式自動貨車の設計と製作に着手している。
自動車科では、アメリカのパッカード形貨物自動車をモデルに4t自動貨車5台を製作した。自動車・飛行機工場にはアメリカから自動車製作用の工作機械42台を輸入して設置した。
しかし、大正8年7月に陸軍から航空機の試作命令が出たため、これに総力を結集する方針を固め、自動車生産はやむなく中断することになった。

飛行機生産のパイオニアとして

陸軍乙式偵察機 大正11年(1922年)

大正7年(1918年)8月、当社はフランスのサルムソン社とサルムソン2A-2形偵察機および同AZ-9形発動機などに関する技術提携を行った。
そして、大正8年4月に建設した自動車・飛行機製作工場において、生産の第一歩を踏み出したのである。

大正8年7月に陸軍からサルムソン2A-2形飛行機2機の製作要請を受けた当社は、機体組立工場など計1,530坪(約5,050平方メートル)を増設、先にサルムソン社から輸入した飛行機3機の組み立てを始めるとともに、翌9年の秋には発動機の製作にも着手した。

しかし、当時、わが国の航空機製作はまだ黎明期にあり、技術用語の翻訳、図面 の解釈、資材の調達など、関係技術者の苦労は想像を絶するものがあったという。
このため、松方社長は竹崎友吉技師を伴い、大正10年から12年にかけて再び欧米各国の航空機工業界を視察し、技術習得に努めて製造技術の向上を図った。また、飛行機工場の諸施設の拡充を行う一方、10年の秋には岐阜県稲葉郡蘇原村三柿野に土地6万575坪(19万9,900平方メートル)を取得し、飛行機組立工場、飛行機格納庫と試験飛行のための設備を整えたのである。
これが後の岐阜工場(昭和14年改称)となった。

大正11年には陸軍機50機の製作命令があり、当社の飛行機製作はいよいよ本格化していった。まず、自動車科、飛行機科の2科を兵庫工場から分離、本社に直属する飛行機部を新設した。
そして、飛行機部のもとに昭和9年(1934年)、各務原分工場(昭和12年に各務原工場と改称)をおいて陣容を強化したのである。

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