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川崎造船所時代1906年(明治39年)~1927年(昭和2年)

1896年(明治29年)10月15日 株式会社 川崎造船所創立 顧問:川崎正蔵 社長:松方幸次郎

川崎正蔵

明治末期撮影

天保8年(1837年)7月10日、鹿児島城下大黒町の商人、川崎利右衛門の長男に生まれた。

幼名は磯次15才のときに父を失い、17才で長崎に出て貿易商浜崎太平次のもとで修業を積み、はやくも正蔵の非凡な才能が認められた。27才で大阪へ進出して回漕業を営んだが、持ち船の遭難によって失敗、明治2年(1869年)に薩摩藩士が設立した砂糖工場に勤めた。この経験が新政府に買われ、明治6年に大蔵省から琉球藩の砂糖調査、 航路調査を命じられた。
翌年、前島駅逓頭の推挙で日本国郵便蒸気船会社副頭取となり、琉球航路の開発、砂糖の内地輸送に成功した。新政府の琉球政策について、正蔵は「武力によらず、信義を重んじ、親愛の情を持って誠意を尽くすことが最良策」と建議。このことによって、琉球藩と新政府の関係は好転し、明治12年、沖縄県が誕生した。

明治23年第1回帝国議会開設の際、兵庫県選出貴族院多額納税議員となっている。

正蔵は、明治29年10月、株式会社川崎造船所が誕生すると同時に造船経営の第一線から引退し、その後は、内地と朝鮮の土地経営に乗り出すかたわら、神戸川崎銀行(大正9年十五銀行に合併)・神戸新聞社(明治31年設立)などの創業者として、さらに高名な美術収集家として活動した。
大正元年(1912年)12月2日、神戸布引の自邸で76才の生涯を閉じた。

松方幸次郎

大正末期撮影

慶応元年(1865年)12月1日、松方正義の三男として鹿児島に生まれた。
明治14年(1881年)東京大学予備門(現東京大学)を中退、明治17年から22年までアメリカのラトガーズ大学、エール大学、フランスのパリ大学などに留学した。

明治24年5月、父正義が第一次松方内閣を組閣した際首相秘書官に任官、明治25年8月に正義が首相を辞任して以後、日本火災保険副社長、灘商業銀行監査役、高野鉄道取締役などを歴任し、明治29年10月、川崎造船所初代社長に就任した。以来32年間にわたってその座にあり、当社をわが国有数の重工業会社に育て上げた。

明治33年から34年の世界的な金融恐慌で深刻な経営難に見舞われ、景気変動に強い企業体質の必要性を痛感し、新事業として着目したのが鉄道車両の製造だった。

明治39年5月鉄道車両への進出を決意し、神戸東尻池村の兵庫運河沿いに運河分工場を建設し、鉄道車両の製造を開始した。以降、新技術の積極的な導入と技術者の育成を図り、兵庫工場と改称した車両工場を業界随一の工場に成長させるとともに、製鉄、自動車、飛行機などの生産を行うなど、昭和3年(1928年)5月の川崎車輌独立後まで斬新な経営を行った。

この間、神戸瓦斯、神戸新聞、神戸桟橋、九州電気軌道(現西日本鉄道)、川崎汽船など22社の社長および役員のほか、神戸商工会議所会頭、衆議院議員としても活躍、神戸政財界の巨頭というにふさわしい存在であった。
昭和8年、日ソ石油会長に就任、11年から17年まで3回衆議院議員に当選し、戦後の昭和25年6月24日、 鎌倉で永眠した。享年85才。

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